有名な本田忠勝と様々な憶測がそのまま明らかになっていない城跡
正確には「千葉県立中央博物館 大多喜城分館」ですね、でも看板には大多喜城とばっちり書いてあります。
ホント何と辺鄙な土地にあるんだろうというくらい山間のワインディングの間に道の駅がありそこから徒歩五分の所にあるんですね
大多喜城、あまり聞いたことないのではないでしょうか?歴史マニアの方々なら知っているのかもしれませんが、、そんなPRしているところでもないような。。
そもそも誰が城主なのかもわからない私は取りあえず避暑として散歩してみました。
ガッツリ舗装されているお城までの道この先に狭い抜け道があるんです、本当はその道を抜けるのが目的だったんですがせっかくということで。
観光客がちらほら、というか本当にちらほらなんですね。大多喜城目的なんでしょうか?
それ以外ここには観光地はないんですけどね。
山城だったのかな、なんだか公園に近いですね、お城復元にしては素敵に滑らかなアスファルトの坂です。周りも多分お堀や塀などあったのでしょうがその面影も見えずうっそうとしています。
坂の緩急もなく緩やかなのでここら辺一帯は屋敷などあったのではないでしょうか。攻められやすそうですからね
こののぼりで本田忠勝の城と知るくらいです。しかしあの有名な猛将のお城がこんな扱いなのかと思うと保存の仕方にも疑問が残ります。
もしここを大河ドラマに使うにはうーん。。と思ってしまいました。
そうじゃなくてただの本田忠勝を応援したのぼりなんでしょうか?
博物館に到着。当時の城を復刻したのでしょうか?詳しいことは分かりませんがとても小さなお城です。
順路を歩くと鎧がお出迎え、見たことのある鎧レプリカです。真ん中の黒いのが忠勝さんの鎧ですね。他のはなぜここに。。家康公の家臣がずらり。というところでしょうか。
とにかくせっかく来たので入場しようと思いますが小さいですね本当に。
入場料200円。地方の資料館だからでしょうか?都内の区別資料館と同じくらいのお値段です。
中は写真が取れないので割愛しますが内容的には鎧、刀剣の展示、ちょっとした紙の資料です。
200円の内容といえばそうなりますね、なぜこんな保存になってしまったのかを色々調べると
天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城である[1]。
以後、この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきたが、元和5年(1619年)9月、藩主阿部正次の転封により大多喜藩は一時的に廃藩となったため、城は荒廃した。寛文11年(1671年)12月、阿部正春が1万6000石で入城した際、幕府から「大多喜城は城跡になってしまっているので、追々再建するように」という命令が下ったものの、「一重の塀もないありさまで、門や櫓などもない」という当時の記録の通り、大多喜藩規模縮小に伴い、荒廃した状態で長く支配が行われていたようである。元禄3年の幕府隠密の調査記録と思われる、『土芥寇讎記』にも、「幕府から大多喜城の再建命令が通達されたにも関わらず、大多喜藩では命令を履行していない。塀もない状態だ。ましてや門や櫓などあろうはずがない」と記されている。史料が少ないために江戸時代の状態は不明な点も多いが、阿部氏以降の城主は多少の増築などは行ったようである。ただし山頂の天守などは荒廃していたようだ。天保13年(1842年)には天守が焼失し、天守の代わりに2層の「神殿」と称する建築が天保15年(1844年)8月に建てられていたと考えられている。
明治3年12月に城は取り壊され、その後本丸も削平されたという。[2]その後、昭和41年(1966年)に本丸跡は千葉県の史跡に指定された。昭和50年(1975年)に城跡に天保6年(1835年)の図面を基にして天守が再建されて、内部には千葉県立総南博物館(現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館)が設置された。
復元発掘を行うと本田忠勝が領主となる前からの城跡が出てきてしまい現状とは違うものであるらしい。
その後廃藩置県により廃城となってしまったまま大多喜藩が使用していたらしく、幕府から再建の命令が下ったものの大多喜藩は命令を履行していないとの事。
再建できないのは財政的なもので資金がなく放置してしまい歴史的資料はどんどん失われてしまったんじゃないかと思います。
この城跡には様々な考察がされていて全て憶測や他の文献からの情報をかき集めて形作った大多喜城の博物館になっているようです。
ちょっと寂しいですね。
本田忠勝時代の大多喜城の歴史です。10万石に減封された本田忠勝ですが地図の下の方に見える点線のような城下町を整備したようです。
城内の庭からも城下町はちょっと見えますよ。
全ては憶測のまま、ただ本田忠勝が居たお城としてある大多喜城。 明確ではない資料に対しうーんと思うか想像を膨らませられると思うかはあなた次第です。
もしこの資料館に立ち寄る際は帰りにでも整備した城下町を歩いて見るのもいいかもしれませんね。